流石は長谷川平蔵
いまさらですが、鬼平犯科帳を読んでいます。
実を言うとこの手のものはあまり読んでこなかったのですが(血わき肉踊るような講談本は中高生の頃読み漁りましたけど)、最近暇に任せて連れ合いが以前に読んでいた藤沢周平や池波正太郎を脈絡なく(最近PCの具合がイマイチで、表示が遅いため、待っている間に眼を通している訳です)読んでいます。
で、鬼平犯科帳に「遺体がなくとも墓は墓だ。墓をたて、その墓にほうむられた人をしのび、これを供養した人のこころがあるかぎり、それは立派な墓なのだよ」という科白がありました(「麻布ねずみ坂」という話です)。
前回、墓や葬式はこ死んだ人ではなく、残された者のためにあるんだ、という意味のことを書きました。
鬼平犯科帳(「麻布ねずみ坂」という話)の本筋とは関係ありませんが、そのくだりを読んで、流石に池波正太郎だ、と思いました。
あ、そうだ。
それこそ書いている話と無関係ですが人の名前の呼び方について、著名人は呼び捨てにすることがむしろ尊敬の意を表します。
「氏」を付けて尊敬の意を表すことも可能ですが、「さん」になると個人的に親しいように感じます。三島由紀夫さんとか、夏目漱石さんなどと呼ぶとむしろお前はナニ様だ?と思ってしまいます。
以前テレビである作家を呼び捨てにした言い方に対して、「呼び捨てかよ!」とキレていた若手俳優がいました。本人は常識をわきまえている風を気取りたかったのかもしれませんが、歴史上の人物や文学者・作家などの場合は呼び捨てのほうが敬意を表していることを識らないことを自分で暴露しているようなものです。
まぁ、でもこの使い訳は結構難しいですね。
閑話休題。
教会が慶事から弔事まで、もっといえばゴミュニティサロンのような役割を果たしているのに対し、お寺さんは専ら弔事専門店になってしまった(もちろん私は本来はそうではない筈といいたいのですが)ことについて少し掘り下げて考えたいとおもっていました。
ちょっとだらけてきたので、項を改めます。
実を言うとこの手のものはあまり読んでこなかったのですが(血わき肉踊るような講談本は中高生の頃読み漁りましたけど)、最近暇に任せて連れ合いが以前に読んでいた藤沢周平や池波正太郎を脈絡なく(最近PCの具合がイマイチで、表示が遅いため、待っている間に眼を通している訳です)読んでいます。
で、鬼平犯科帳に「遺体がなくとも墓は墓だ。墓をたて、その墓にほうむられた人をしのび、これを供養した人のこころがあるかぎり、それは立派な墓なのだよ」という科白がありました(「麻布ねずみ坂」という話です)。
前回、墓や葬式はこ死んだ人ではなく、残された者のためにあるんだ、という意味のことを書きました。
鬼平犯科帳(「麻布ねずみ坂」という話)の本筋とは関係ありませんが、そのくだりを読んで、流石に池波正太郎だ、と思いました。
あ、そうだ。
それこそ書いている話と無関係ですが人の名前の呼び方について、著名人は呼び捨てにすることがむしろ尊敬の意を表します。
「氏」を付けて尊敬の意を表すことも可能ですが、「さん」になると個人的に親しいように感じます。三島由紀夫さんとか、夏目漱石さんなどと呼ぶとむしろお前はナニ様だ?と思ってしまいます。
以前テレビである作家を呼び捨てにした言い方に対して、「呼び捨てかよ!」とキレていた若手俳優がいました。本人は常識をわきまえている風を気取りたかったのかもしれませんが、歴史上の人物や文学者・作家などの場合は呼び捨てのほうが敬意を表していることを識らないことを自分で暴露しているようなものです。
まぁ、でもこの使い訳は結構難しいですね。
閑話休題。
教会が慶事から弔事まで、もっといえばゴミュニティサロンのような役割を果たしているのに対し、お寺さんは専ら弔事専門店になってしまった(もちろん私は本来はそうではない筈といいたいのですが)ことについて少し掘り下げて考えたいとおもっていました。
ちょっとだらけてきたので、項を改めます。
宗教について(2)
原始の宗教というのは、森の古木とか、丘ある巨石などを崇めるものであったらしい。また、天変地異を鎮め、日照り続きの時は雨乞いをするものだったとも言われています。
たぶん古代の人にとっては、古木や巨岩は崇めるに値する永遠に続く「いのち」だったのでしょう。永遠の「いのち」を素直にあがめ、その前で敬虔な気持ちで手を合わせると、不思議に心が和んだのだと思われます。
本来の宗教・信仰とは、そのよう心が和み、安心感が得られるものだったのだろうと思います。つまり安心立命が宗教の本義です。
葬式は故人との「永遠の別れ」というけじめをつける儀式であり、お墓は故人を偲ぶための拠り所なのでしょう。つまり遺族のためにあるものなのです。
私は「人間は死んだら生ゴミ」だと思っている人間です。
個人的には葬式もお墓も不要と思っています(不要もナニも、その時点では既に「私」はこの世には居ないのですから、そんなモノやコトはどうでもいい、としか言いようがありません)。
ただし、葬式は遺族のための儀式ですから、若し私の子供がその時の人間関係や職場との関係で世間一般並み(もしくはそれ以上)の儀式にしたいと思うのであれば、思うようにやればいいと思っています。
私は母の時は「故人の意思」ということで葬式もしませんでしたし(父の時は葬式はしました。いわゆる世間体というヤツに逆らうほどの強い意志が私になかったからです)。父も母も戒名をつけず(私の家は浄土真宗ですから戒名ではなくて法名というべきですが)、墓碑には俗名のみが刻んであります。
宗教は安心立命を得ることが本義だと書きました。
安心立命を得るためには生前であることが必要です。
戒名も法名も生前に仏門に入り、仏教(とその戒律)を学び、その証として戒名や法名を授かることが本義です。
仏教を学ばず、その戒律も識らず、ただ死後に極楽浄土に行けるようにお金で戒名や法名を購うというのでは、価値をお金にしか認めていない生き方に死ぬまで(死んだ後まで)スブスブに漬かっていた証のようなものです。
お金で戒名や法名を購う側も購う側ですが、恥も外聞もなくそれを「売る」仏教者も仏教者です。それぞれの宗派の開祖は、皆立派なお坊さんです。にもかかわらずその末裔がひたすらお金で安心立命を「売る」ことに、たぶんそれぞれの開祖は落胆していることだろうと思います。
もちろんそれも遺族の自由意志ですから、もし私の死後に遺族が大枚をはたいて法名を買うのは勝手です(それは嫌だと言ってももう私は死んでいるのですから、どうしようもありません)。
ただ、私の意志として葬式も法名も不要だということは、遺言として残します。
でも経済的な利益とは関係のないことだから、「故人の意思に反して」法名を付けたからといって、家庭裁判所がそれを罰することはできないでしょうね、たぶん。
お金をかけない口実として「故人の意思」というのは結構使える言い訳ですけどね。
たぶん古代の人にとっては、古木や巨岩は崇めるに値する永遠に続く「いのち」だったのでしょう。永遠の「いのち」を素直にあがめ、その前で敬虔な気持ちで手を合わせると、不思議に心が和んだのだと思われます。
本来の宗教・信仰とは、そのよう心が和み、安心感が得られるものだったのだろうと思います。つまり安心立命が宗教の本義です。
葬式は故人との「永遠の別れ」というけじめをつける儀式であり、お墓は故人を偲ぶための拠り所なのでしょう。つまり遺族のためにあるものなのです。
私は「人間は死んだら生ゴミ」だと思っている人間です。
個人的には葬式もお墓も不要と思っています(不要もナニも、その時点では既に「私」はこの世には居ないのですから、そんなモノやコトはどうでもいい、としか言いようがありません)。
ただし、葬式は遺族のための儀式ですから、若し私の子供がその時の人間関係や職場との関係で世間一般並み(もしくはそれ以上)の儀式にしたいと思うのであれば、思うようにやればいいと思っています。
私は母の時は「故人の意思」ということで葬式もしませんでしたし(父の時は葬式はしました。いわゆる世間体というヤツに逆らうほどの強い意志が私になかったからです)。父も母も戒名をつけず(私の家は浄土真宗ですから戒名ではなくて法名というべきですが)、墓碑には俗名のみが刻んであります。
宗教は安心立命を得ることが本義だと書きました。
安心立命を得るためには生前であることが必要です。
戒名も法名も生前に仏門に入り、仏教(とその戒律)を学び、その証として戒名や法名を授かることが本義です。
仏教を学ばず、その戒律も識らず、ただ死後に極楽浄土に行けるようにお金で戒名や法名を購うというのでは、価値をお金にしか認めていない生き方に死ぬまで(死んだ後まで)スブスブに漬かっていた証のようなものです。
お金で戒名や法名を購う側も購う側ですが、恥も外聞もなくそれを「売る」仏教者も仏教者です。それぞれの宗派の開祖は、皆立派なお坊さんです。にもかかわらずその末裔がひたすらお金で安心立命を「売る」ことに、たぶんそれぞれの開祖は落胆していることだろうと思います。
もちろんそれも遺族の自由意志ですから、もし私の死後に遺族が大枚をはたいて法名を買うのは勝手です(それは嫌だと言ってももう私は死んでいるのですから、どうしようもありません)。
ただ、私の意志として葬式も法名も不要だということは、遺言として残します。
でも経済的な利益とは関係のないことだから、「故人の意思に反して」法名を付けたからといって、家庭裁判所がそれを罰することはできないでしょうね、たぶん。
お金をかけない口実として「故人の意思」というのは結構使える言い訳ですけどね。
宗教について(1)
少し前、「人間は死んだら生ゴミになる」といわれた政治家がいました。
(いま確認のため「後藤田正晴」さんを探したら、2005年にお亡くなりになっていました)
私もそう思っています。
ただ、宗教の存在は認めています(なんつーとエラそうな物言いですが、信じる信じないは個人の自由ですから、誰かが「認める」とか「認めない」とかは関係ないのだと思います)。
閑話休題。
誰でも(いや「殆どの人は...」と言い直します)小さい頃、転んだりぶつけたりした時、母親が「ちちんぷいぷい」とか「痛いの痛いの飛んでけー」と痛む箇所をさすってくれたことだろうと思います。
痛みがそんなことで治る訳ねぇだろーと思うかもしれませんが、治ります。
少なくとも子供の頃は母親がそうおまじないを唱えてくれると、なんとなく痛みが和らいだ気がしませんでしたか?
話は飛びますが、プラシボ効果って知っていますか?
偽薬のことです。
病院で医師がこれは(あなたの)病気に大変効く薬ですと言って渡すと、渡された偽薬には何の薬効もないのに、半分以上の人がなんらかの効果があったと認めるそうです。
痛い、苦しい、おいしい等、ただ「そういう気がする」たぐいではないと思いますが、それも結局脳の指令によるのだそうです。
つまり、「そう思えば」かなりの確率で「そう」なるのです。
精神力で腫瘍が消えたとかいう話、聞いたことはありませんか?
精神力「だけ」で腫瘍が治るとか、ただ精神力で「そう思えば」いいというのは非科学的な話ですが、かなりな力であることは事実のようです。
おまじないの話です。
母親を信じる気持ちが強ければ、たとえなんとなくその時だけそんな気がした程度であっても、痛みが和らぐのです。
くそ真面目にいえば「おまじない」のコトバの魔力というより、痛い箇所をさするというマッサージ効果で痛みが拡散し、母親への信頼度がその効果をより以上に感じさせるのかもしれません。
宗教も似たような側面があるのだと思っています。
が、長くなるのでいったんここで切ります。
つぎの文章をまた読んでください。
(いま確認のため「後藤田正晴」さんを探したら、2005年にお亡くなりになっていました)
私もそう思っています。
ただ、宗教の存在は認めています(なんつーとエラそうな物言いですが、信じる信じないは個人の自由ですから、誰かが「認める」とか「認めない」とかは関係ないのだと思います)。
閑話休題。
誰でも(いや「殆どの人は...」と言い直します)小さい頃、転んだりぶつけたりした時、母親が「ちちんぷいぷい」とか「痛いの痛いの飛んでけー」と痛む箇所をさすってくれたことだろうと思います。
痛みがそんなことで治る訳ねぇだろーと思うかもしれませんが、治ります。
少なくとも子供の頃は母親がそうおまじないを唱えてくれると、なんとなく痛みが和らいだ気がしませんでしたか?
話は飛びますが、プラシボ効果って知っていますか?
偽薬のことです。
病院で医師がこれは(あなたの)病気に大変効く薬ですと言って渡すと、渡された偽薬には何の薬効もないのに、半分以上の人がなんらかの効果があったと認めるそうです。
痛い、苦しい、おいしい等、ただ「そういう気がする」たぐいではないと思いますが、それも結局脳の指令によるのだそうです。
つまり、「そう思えば」かなりの確率で「そう」なるのです。
精神力で腫瘍が消えたとかいう話、聞いたことはありませんか?
精神力「だけ」で腫瘍が治るとか、ただ精神力で「そう思えば」いいというのは非科学的な話ですが、かなりな力であることは事実のようです。
おまじないの話です。
母親を信じる気持ちが強ければ、たとえなんとなくその時だけそんな気がした程度であっても、痛みが和らぐのです。
くそ真面目にいえば「おまじない」のコトバの魔力というより、痛い箇所をさするというマッサージ効果で痛みが拡散し、母親への信頼度がその効果をより以上に感じさせるのかもしれません。
宗教も似たような側面があるのだと思っています。
が、長くなるのでいったんここで切ります。
つぎの文章をまた読んでください。
戒名と学位
戒名というと死んだ後に付ける仏式の名前ぐらいに思っている人が多いのですが、戒名とは仏門に入り戒律を守る証としてお寺から授かる仏教徒としての名前のことをいいます。
浄土真宗にはそもそも戒律がありませんので、法名といいます。仏「法」者としての「名」前というほどの意味だと思います。
したがって本来は生前に授かるものです。死んだ後に授かっても仏法とかその戒律を学ぶ(学ばなければ戒律を守る者としての証という意味がありませんから)訳にはいきません。
戒名も法名も、「仏門に入る」ための(あるいは仏門に入った証としての)名前です。仏門に入って仏法やその戒律を学ぶ者に授けられる訳です。
現在葬式仏教で行われる死んだ後に戒名を付けるというのは、本来の意味から全く外れているといえるでしょう。
推察すれば仏教徒でなければ死んだ後来世に行くことができない、地獄に堕ちてしまうという思想があり、生前凡夫として生きた者も安心して死出の旅路に出ることが出来るだろうという思惑で、死後だけれど仏門に入ったこととして戒名を付けてもらうことが流行したのだろうと思われます。
キリスト教にもクリスチャンネームというものがあります。
「信じている」という意味では欧米の人は殆どキリスト教を信じているそうですが、それでも宗門に入る証として「洗礼」という儀式を行った後、クリスチャンネームを授かるようです。
当然ですが洗礼を受けクリスチャンネームを授かるのは、もちろん生前です。
死後に洗礼を受けたこととしてクリスチャンネームを授かるということは聞いたことがありません(もっとも私はキリスト教に関しては殆ど無知ですので、もし誤りがあればどなたかご教示ください)。
しかも、戒名や法名は死後に付けてもらうのに法外なお金がかかります。
クリスチャンネームが同じように売買の対象だという話も聞いたことがありません。
ただし、「洗礼」は一種のセレモニーで、牧師さんが儀式に関わる訳ですから、牧師さんの手を煩わせるという意味で、教会に対して応分の喜捨があるかもしれません。
同じような意味で、仏法や仏教徒としての戒律を学ぶために費用がかかるということはあり得るかもしれません。
しかし、死者は学べないのですから、戒名や法名は学ぶための費用の筈がありません。強いて言えば名付けのために多少頭を捻るということがあるかもしれません。
そういえば「戒名」というキーワードで検索をすると、俗名を入力するとPCで戒名を付けてくれるというサイトがありました。もちろん無料です。
個人の好みや希望で「戒名」を付けて貰うこと自体は否定しませんが、本来お金で売買しないものを、お金の多寡で売りつける仏教のさもしさには落胆するばかりです。
「..と学位」というタイトルを付けましたが、本来学ぶことが前提で売買の対象ではない称号なのに、お金の多寡で売買の対象になっているものとして「学位」があります。
ちゃんとした大学の学士号や博士号はともかく、お金で勝手な博士号などが存在することも事実です。
お金で売り買いされる戒名・法号と、あやしげな学位って似ているな、とフト思ったものですから...
浄土真宗にはそもそも戒律がありませんので、法名といいます。仏「法」者としての「名」前というほどの意味だと思います。
したがって本来は生前に授かるものです。死んだ後に授かっても仏法とかその戒律を学ぶ(学ばなければ戒律を守る者としての証という意味がありませんから)訳にはいきません。
戒名も法名も、「仏門に入る」ための(あるいは仏門に入った証としての)名前です。仏門に入って仏法やその戒律を学ぶ者に授けられる訳です。
現在葬式仏教で行われる死んだ後に戒名を付けるというのは、本来の意味から全く外れているといえるでしょう。
推察すれば仏教徒でなければ死んだ後来世に行くことができない、地獄に堕ちてしまうという思想があり、生前凡夫として生きた者も安心して死出の旅路に出ることが出来るだろうという思惑で、死後だけれど仏門に入ったこととして戒名を付けてもらうことが流行したのだろうと思われます。
キリスト教にもクリスチャンネームというものがあります。
「信じている」という意味では欧米の人は殆どキリスト教を信じているそうですが、それでも宗門に入る証として「洗礼」という儀式を行った後、クリスチャンネームを授かるようです。
当然ですが洗礼を受けクリスチャンネームを授かるのは、もちろん生前です。
死後に洗礼を受けたこととしてクリスチャンネームを授かるということは聞いたことがありません(もっとも私はキリスト教に関しては殆ど無知ですので、もし誤りがあればどなたかご教示ください)。
しかも、戒名や法名は死後に付けてもらうのに法外なお金がかかります。
クリスチャンネームが同じように売買の対象だという話も聞いたことがありません。
ただし、「洗礼」は一種のセレモニーで、牧師さんが儀式に関わる訳ですから、牧師さんの手を煩わせるという意味で、教会に対して応分の喜捨があるかもしれません。
同じような意味で、仏法や仏教徒としての戒律を学ぶために費用がかかるということはあり得るかもしれません。
しかし、死者は学べないのですから、戒名や法名は学ぶための費用の筈がありません。強いて言えば名付けのために多少頭を捻るということがあるかもしれません。
そういえば「戒名」というキーワードで検索をすると、俗名を入力するとPCで戒名を付けてくれるというサイトがありました。もちろん無料です。
個人の好みや希望で「戒名」を付けて貰うこと自体は否定しませんが、本来お金で売買しないものを、お金の多寡で売りつける仏教のさもしさには落胆するばかりです。
「..と学位」というタイトルを付けましたが、本来学ぶことが前提で売買の対象ではない称号なのに、お金の多寡で売買の対象になっているものとして「学位」があります。
ちゃんとした大学の学士号や博士号はともかく、お金で勝手な博士号などが存在することも事実です。
お金で売り買いされる戒名・法号と、あやしげな学位って似ているな、とフト思ったものですから...

